絵
ざくり。 ざくり。 ざくり。 霧の様な雨がそぼ降り、腐った土の匂いが辺りを満たしている。 既に日は落ちており、月も無く、どっぷりとした闇が空気を覆っている。 誰も居ない、深夜の墓場である。 ざくり。 ざくり。 ざくり。 その中で、夜に溶け込んでいない一つの影が動いていた。 風雨に晒され、刻まれた名も見えなくなった墓石。 その根本を、薄汚れたつなぎを着た男が、スコップで穴を掘っていた。 年は四十を回った頃であろうか、中肉中背で猫背の、どこかおどおどとした男である。 顔には恐怖と怒りが混じり合った表情が張り付いている。 額にはじっとりと脂汗が浮かんでおり、息を切らして疲労を訴えている。 それでも、男は手を休めない。 ざくり、ざくりと、何かに突き動かされるかのように、掘るのを止めない。 糞っ。 なんで俺が、こんな事。 男は手を動かしながら、己の心中で一人ごちた。 男は盗みを生業としていた。 人の物を盗み、売り飛ばすことで、一日の糧を得ている、そういう人間である。 男は盗みなんぞやりたくは無かった、しかしやらざるを得なかった。 職は無い、物は全てお偉い方の懐の中。 やらなければ、飢えて、死ぬ。 やりたくねぇ。けど、やらなきゃなんねえ。 相反する気持ちと、それに伴った黒い靄のようなものが、男の中で渦巻いていく。 やりたくねぇ。けど、やらなきゃなんねえ。 「なら、やらなけりゃ良いじゃあないか」 「うひゃあっ」 突然の呼びかけに心臓が大きく飛び跳ね、男は情けない声を出してスコップを放り投げ出してしまった。 「おやおや、どうしたんだい。そんな女みたいな声出しちまって」 けた、けた、けた。 声に続いて、妙に不快さを催す嗄れた高笑いが墓場に響く。 男が呆気に取られていると、やがて目の前の闇をぼやかすように、一つの影が姿を現した。 ―――影は汚れたぼろきれを羽織った老婆であった。 背の丈は五尺を僅かに下回る程度の、酷く腰の曲がった、樫の杖をついた老婆である。 男はスコップを拾い上げながら、安堵の表情を浮かべる。 「なんでえ婆さん、脅かすない」 「ああ、こりゃあすまなかったねえ」 と、老婆は頬のしわを一掃深めて、またけたけたと高く笑う。 そうして一頻り笑い終えると、にやりと口の端を持ち上げながら男に言った。 「ところでお前さん。『こいつ』を盗るのは、止めといた方が良い」 「―――『こいつ』?」 男は訝しんだ瞳で老婆を見据える。 すると老婆は表情を崩さずに、ひょいと杖を男の足下に向ける。 「『こいつ』ってのは、『こいつ』のことさ」 何なんだ。この婆さん。 男はその視線に益々怪訝の色を加える。 男はこの老婆に、不気味な何かを感じ取っていた。虫が背中を這い回るような、ぞわぞわとした何かを。 「おい婆さん、あんた何なんだ?役人にゃあ見えねえが」 心なしか語尾が強まっているのを、言った本人が感じていた。 男は老婆を見つめながら、スコップの柄を強く握り締める。 「あたしの事なんぞ、どうでも良いじゃあないか。それよりも今は、こっちの方が重要さね」 男と対照的に、老婆は飄々としてそう答えた。 男は警戒を解かぬままに、掠れた声で老婆に問う。 「なんだい婆さん、ここに何があるってんだい」 「ああ。絵、さぁ」 「絵?」 「そう、絵」 絵、だって? 「なんだい。その絵が、なんだってんだい」 「そいつは言えない。けど、悪いこたぁ言わない、止めときな」 老婆は返す船も無いといったように、男に向かって笑う。 暫しの間。 「んなもん、知らねえな」 ひゅん、ざくり。 そうして男はまた、スコップを振るいだす。 老婆は何も言わない。 ただ穴の淵で、じいっと男を見つめている。 糞っ。 なんだってんだ、いってぇ。 ざくり、ざくり、という掘る音が、夜の墓場に響きわたっている。 次第に闇は一層と濃くなっていき、一寸先でさえもう、ろくに見えないという状況であった。 ざくり。 ざくり。 ざくり。 「そう言えばお前さん、こんな話を知っているかえ」 一間程も掘ったであろうか。 今までただ見ていた老婆が、唐突に口を開いた。 男は一瞬びくりと体を竦ませたが、すぐに老婆の方を見ずに無言で作業を再開する。 「この墓場にゃあねえ、お前さんみてえな強欲な盗人が、仰山埋まっているのさ」 老婆は、独り言のように続ける。 ざくり。 ざくり。 ざくり。 「お前さんも、気ぃつけなよ」 けひ、けひ、けひ。 一通り話すと、老婆はあの嗄れた嫌な声で、高く笑った。 男はそれを聞きながら、一心不乱に掘り続ける。 言いようの無い濁った恐怖を振り払うかのように、只々スコップを振るい続ける。 ざくり。 ざくり。 ざく、かつん。 スコップの先に、何か硬い物。 ぎょくりと音を立てて、口中に溜まった唾を飲み込む男。 少しの間、やがて男は意を決したかのように、その硬い何かを掘り出すように土をこそぐ。 そしてすぐに、男の目の前に、人一人が入りそうな大きな桐箱が、土にまみれて現れた。 「どうしたぃ、開けないのかい?」 老婆はにたりにたりと、口の端を吊り上げる醜い笑みを浮べている。 その笑みを見ると、男は背中にあの虫の這いずり回る様な嫌な感触を催した。 恐怖に駆られたその顔は、びっしりと脂汗が浮かんでいる。 「―――畜生がっ」 男は一息に、箱の蓋を開けた。 え。 なんだあ、こりゃあ。 始めに目に飛び込んできたのは、良く見知った己自身の目であった。 しかして一秒と刹那の後、男はそれが絵であることを理解した。 箱に入っていたのは、老婆の言っていたように一枚の絵であった。 それは、自分が生きたまま埋められている絵であった。 中心にぽっかりとした大きな穴、その中に己が恐怖の張り付いた顔をしてへたり込んでいる。 そしてその穴の淵に、蛆の湧いた腐肉のこびりついた、ぼろきれを羽織った骸骨が数人居て、笑いながら穴に土を放り込んでいるのだ。 ぞくり。 血が凍るような、心臓を鷲掴みにされる感覚。 なんだあ、こりゃあ。 男は上を見上げると、穴の淵に腰掛けていた老婆の姿は、どこにも無かった。 「ひっ、ひぃぃぃぃっ」 男の喉から、か細い掠れた悲鳴が漏れる。 男はそのまま急いで穴から這い上がり、転げるかのように走り出した。 やがて、男の影は闇に溶け、墓場には何も残らなくなった。 あるのは、大きな穴と、一枚の絵だけ。 ―――じぃぃぃぃぃ。 ふと忘れたかのように、にいにい蝉が鳴き始める。 墓場はすぐに、蝉の鳴き声で満たされた。