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老人と若僧3


 ずぶり。
 
 ずぶり。
 
 
 足を入れて、抜く。
  
 
 雪が吹きすさぶ雪原である。
 
 腰まで有りそうな雪の中を、男が歩いている。
 
 顔全体が髭で覆われた、熊の様な大男である。
 
 何かに脅える表情。
 
 時折後ろを見、再び歩き出す。
 
 男はそれを繰り返す。
  
 
 ―――ん?
  
 
 男の眼前にぽつりと何かが有る。
 
 それは木立の中に有る、小さな寺であった。
 
 
 助かった。
 
 
 男は寺に向かって歩き出した。






 
 ぱち。
 
 ぱちり。
 
 木の爆ぜる音。
 
 囲炉裏である。
 
 古ぼけた薄暗い、木造の、畳を敷き詰めた部屋。
 
 その真ん中に有る囲炉裏が、部屋と一つの影をゆらりゆらりと照らしている。
 
 影は老いた僧。
 
 薄汚れたよれよれの袈裟を着た、老僧である。
 
 老僧は赤ら顔で満足そうに笑っている。
 
 「―――今日は、吹雪か」
 
 老僧は囲炉裏に燃べていた徳利を手に取る。
 
 きゅぽん。
 
 徳利の蓋が抜かれる小気味の良い音が、部屋に響く。
 
 老僧は脇に置いてあった猪口に、徳利を傾ける。
 

 その時であった。

 
 がら、がら、がら。
 
 
 
 戸が開かれる音が部屋中に響く。
 
 老僧は戸の方を見る。
 
 男だ。
 
 熊の様な髭むくじゃらの大男がそこに居た。
 
 息が荒い、口元がぶわりぶわりと白く染まる。
 

 「こんな寒い中良う来なすった。ささ、火に当たりなされ」

 老僧は招き入れる様に、手を上げる。
 
 男は肩の雪を払い、座敷に上がった。
 
 そのまま囲炉裏の近くにどっかりと胡座をかく。
 
 「いやぁ、助かった」
 
 老僧はすっ、と男に猪口を差し出す。
 
 「暖まりますぞ」
 
 「やぁ、これはすまん」
 
 男は頭の後ろに手をやって、猪口を受け取る。
 
 老僧は男の猪口に酒を注ぎ、自分の猪口にも酒を注ぐ。
 
 老僧は一気に猪口の酒を飲み干す。
 
 満足そうに息を吐く。
 
 「極楽、極楽」
 

 ぱちん。
 
 
 木が一つ爆ぜ、火の粉が飛ぶ。
 
 男はじっと猪口の酒を見つめている。
 
 「旅の方かの」
 
 老僧は猪口に酒を注ぎながら言う。
 
 「―――ああ、まあ」
 
 男は何かに躊躇いながら、掠れた声で答える。
 
 老僧は表情を崩さずに男の顔を見つめる。
 
 「こんな雪の日にこんな山奥まで、何かありましたかな」
 

 少しの間。
 

 部屋に酒を啜る音が響く。
 
 老僧は満足そうに息を吐く。
 
 「まぁ言いたくなければ、良いですじゃ。人間誰しもそういう事は有る」
 
 男は黙って囲炉裏の炎を見つめ、酒を軽く啜る。
 
 「人間、旨い飯を食い、旨い酒を飲み、笑って騒ぐ、それだけで良い」
 
 
 どさ。
 
 
 屋根から雪が落ちた。
 
 「なぁ、和尚さん」
 
 男は掠れた声で呟く。
 
 「あんた、徳を積んだ偉い坊さんなんだろ」
 
 老僧は、とんでもない、と頭を左右に振る。
 
 「わしゃあ戒律も守れない、ただの生臭坊主ですじゃ」

 ほれこのとおり、と老僧は酒を啜る。
 
 へっ。
 
 男は軽く鼻で笑う。
 

 「―――なぁ和尚」

 
 男は猪口の酒を一気に飲み干し、息を吐く。
 
 
 「俺は人を殺しちまった。この手で、な」
 
 
 ぱち。
 
 ぱちり。
 
 
 木片が爆ぜ、火の粉が飛ぶ。
 
 
 老僧は自分の猪口に酒を注ぎ足す。
  
 「―――なあ、旅のお方」
 
 老僧は徳利を男の前に差し出す。
 
 男は黙って猪口を持った。
 
 男の猪口に酒が注がれ、徳利が引っ込められる。
 
 老僧は男を見つめる。
 
 「一つ、この坊主の説法を聞いていきなされ」






 
 囲炉裏の炎が二人をゆらゆらと照らしている。
 
 「わしがまだ十六の頃じゃ」
 
 老僧は酒を軽く啜る。
 
 「わしはその頃、丁度海軍学校に入学したばかりじゃった」
 
 「へぇ、和尚が海軍か」
 
 「うむ」
 
 男はじっ、と老僧を見つめている。
 
 「まぁそれでな、健康診断が有ったんじゃよ」
 

 がたがたがた。

 
 強い風が吹き、戸が揺れる。
 
 「で、看護婦に紙コップを渡されて『これに尿を入れてきて』と言われての―――」






 
 なんという、なんという事であるか。
 
 尿、である。
  
 尿が今にも溢れんばかりに、並々と、紙コップに注がれている。
  
 青年はその紙コップを、震えながら見つめていた。
 
 青年の額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。
 
 
 これは、まずい。
 
 
 尿の水面がゆらゆらと揺れている。
 
 
 まずい。
 
 が。
 
 
 にぃ。青年は口端を吊上げる。
 
 
 このまま―――
 
 このまま、提出してしまおうか。






 
 「で、提出しちまったのかぃ」
 
 「そうじゃ」
 
 ちりちりと木片が朱く染まっていく。
 
 「今思えば、なんでそんな事を思ったんじゃろうかのぅ―――」
 
 老僧は酒を啜る。
 
 「きっと緊張してたんだろうよ」
 
 「そうかのぅ」
 
 そうじゃのう、と呟き、猪口を傾ける。
 
 「まあ、それでなぁ」







 ごぶり。
 
 
 看護婦は喉に溜まった唾を飲み込む。
 

 この男、何を考えているのだ。

 
 看護婦の目の前には、尿が並々と注がれたコップが有る。
 
 看護婦の背中に虫が這う様な感覚。
 

 にぃ。看護婦は太い笑みを浮かべる。
 
 「―――おめぇさん、こりゃあ何の真似だぃ?」
 
 青年はがくがくと震えていて、呼吸をするのも困難になっている。
 
 「こりゃあ、入れ過ぎだぜ」
 
 看護婦は更に口端を吊上げる。
 
 
 お―――
 
 
 青年が一言呟く。
 
 数秒の間、そして。
 
 
 おきゃぁぁぁぁあああああああああああああああああ
 
 
 病院に青年の怪鳥のごとき咆叩が響き渡る。
 
 青年はこれ以上できない程口端を吊上げる。
 
 
 ふひ。
 
 
 ふひひひ。
 
 
 ぶふ。
 
 
 ひひ。
 
 
 ぶふひはひひは。
 
 
 青年は激しく痙攣しながら、狂った様に笑い出した。
 
 既に眼は何処も見ておらず、濁った瞳は虚空を見つめている。
 
 
 ふひ、ふひ。
 
 
 ふっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。
 
 
 「っすいませんすいませんすいませんふひはははすいませんふひひすいませふはふはふひひひはふ」
 
 
 青年の言葉は最早意味を持たず、ただ呪文の様に、笑い顔で何かを叫んでいた。






 
 部屋は静寂に包まれていた。
 
 老僧と男は何も言わず、ただ囲炉裏の炎を見つめている。
 
 男は押し黙った様に、掠れた声で呟く。
 
 
 「―――たまんねぇ、な」
 
 「たまらんのぅ―――」
 
 
 老僧は徳利を猪口に傾ける。
 
 
 ぽちょん。
 
 
 徳利から酒が一滴垂れた。
 
 老僧はおや、と呟き立ち上がる。
 
 「もう夜も更けた事です、泊まっていきなされ」
 
 「すまん」






 
 冷え切った、畳を敷き詰めた小さな部屋。
 
 布団が一つ。その中に、男が居た。
 

 もそり。

 
 男は掛け布団を押し退け、黙って襖を開く。
 
 
 雪は止んでいた。
 
 男は軽く辺りを見回して、縁側を静かに歩き出した。
 
 
 
 
 
 
 
 からら。
 
 夜の雪原に、戸を開く乾いた音が響く。
 
 間も無く戸から男が姿を現す。
 
 男はちらりと部屋を見やる。
 
 「―――たまんねぇよ」
 
 戸がまた閉められる。
 
 男はそれっきり、何も言わずに雪原を歩き始める。
 

 それを一つの影が、隠れて覗いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 翌朝。
 
 畳を敷き詰めた部屋に、老僧は座していた。
 
 老荘の手に握られているのは、新聞。
 
 
 からから。
 
 
 襖が音を立てて開き、凛とした剃髪の若僧が姿を現す。
 
 「和尚、朝餉の準備が整いました」
 
 「おお、今行く」
 
 老僧は新聞を見つめている。
 
 
 にぃ。
 
 
 老僧は満足そうに口端を吊り上げる。
 
 「おや、和尚。どうかしたのですか?」
 
 「いや、ちょっとなぁ」
 
 老僧は新聞を畳の上に置き、立ち上がる。
 
 
 かららら、ぴしゃん。
 
 
 襖が閉められる。
 
 そして部屋には新聞だけが残った。
 
 
 
 
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