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老人と若僧2

 冷え切った、畳を敷き詰めた部屋に、一枚の布団。
 
 青年は、その布団で眠っていた。
 
 剃髪の、凛とした若僧である。
 
 
 もそり。
 
 
 布団が軽く動く。
 
 若僧はゆっくりと身体を起こす。
 
 欠伸、息が白み掛かっている。
 
 鼻腔に冷えた空気が張り付く。
 
 「今日は冷えるな」
 
 若僧は軽く目を擦り、布団から出て、もそもそと胴着を着る。
 
 帯を強く締め、襖に向かう。
 
 
 かららら。
 
 
 襖が開く小気味の良い音が辺りに響く。
 
 襖の向こうは白。
 
 一面白く染まっていた。
 
 「やぁ、雪だ」
 
 若僧は微笑を浮かべる。
 
 火を入れないと。
  
 若僧は木が軋む音を立てて縁側を歩き出した。
 
 
 




 
 
 縁側の角を曲がる。
 
 そこに薄汚れた袈裟を着た老僧が、縁側に腰掛けていた。
 
 じっと白く染まった庭を見つめ、茶を啜っている。
 
 ―――?
 
 若僧は立ち止まる、と。
 
 「積もったなぁ」
 
 老僧がこちらを見ずに言う。
 
 「―――そうですね」
 
 若僧は老僧の横に座る。
 
 茶の湯気が老僧の顔を撫でている。
 
 「どうしたんですか?」
 
 老僧はやはりこちらを見ずに、枯れた声で呟く。
 
 「昔をのぅ、思い出しておったのじゃ」 
 
 「―――過去に、何か?」
 
 にぃ、老僧は若僧の方を向き寂しそうに笑みを浮かべる。
 
 「―――のぅ、坊主」
 
 「はい」
 
 「少し、長くなるが良いか?」
 
 「はい」
 
 老僧はまた、庭を見る。
 
 若僧は老僧の近くに腰を下ろす。
 
 少しの間。
 
 ゆっくりと老僧は口を開き、ぽつりぽつりと語り出した。
 
 「ありゃあ、わしが二十の頃じゃ」
 
 老僧は茶を啜る。
 
 「わしゃあその頃、海軍に入隊したばかりじゃった」
 
 「和尚が?」
 
 「うむ」
 
 
 どさ。
 
 
 屋根から雪が落ちる。
 
 「明治の暮れの頃か、あん時の日本はひたすらアメリカの胡麻擂りをやっておった」
 
 老僧の頬が軽く持ち上がる。
 
 若僧はじっと聞いている。
 
 「ある日の事じゃ、わしはお偉いさんに呼ばれた」
 
 老僧は茶を啜る。
 
 「部屋に入って開口一番にこう言われたんじゃ、『今度の立食会談で人手が足りない、お前行ってこい』とな」
 
 「立食会談?」
 
 老僧は苦笑いを浮かべる。
 
 「平たく言えば宴会じゃよ、胡麻擂りのな」
 
 そう言って老僧は持っている湯飲みを見つめる。
 
 「わしはなぁ、そんな体制に辟易しておった。じゃが命令は命令、行かざるを選なかった」
 
 老僧は湯飲みを傾ける。
 
 
 ぽた。
 
 
 湯飲みの水面が軽く揺れる。
 
 老僧と若僧は空を見る。
 
 空から白い物が沢山、ゆっくりと降ってきた。
 
 「あの日も、こんな雪の降る日じゃった―――」
 
 そして目を細め、遠い目をした。
 
 
 
 





 
 ちらちらと雪の降る夕暮れ、その中を一人の青年が歩いていた。
 
 軍服を着た、利発そうな青年である。
 
 青年は右手に持った折目の付いた紙を見ながら歩いていた。
 
 「ここか」
 
 青年は、大きな屋敷の前で足を止め、仰ぎ見る。
 
 「―――迎賓館、ねぇ」
 
 青年は花で軽く笑い、その大きい門の中に入っていった。
 
 
 
 




 
 「それから?」
 
 剃髪の若僧は老僧に問う。
 
 「で、その後色々と準備を手伝っての、気付いたら既に時間が来ていた」
 
 
 ちちち。
 
 
 駒鳥が二羽、どこからかやって来て庭に降りる。
 
 「間もなくお偉いさんが仰山やって来て、立食が始まった」
 
 老僧は湯飲みを傾ける。
 
 駒鳥が互いの口を啄み合っている。
 
 老僧はそれを見て軽く微笑む。
 
 「仲睦まじいのぅ」
 
 老僧はぼそりと呟く。
 
 その言葉には、どこか暗い影が有るように、若僧は感じた。
 
 
 





 
 
 派手な装飾が施された豪華な広間、その中に大勢の身なりの良い人達が談笑している。
 
 青年はその中を、グラスが乗った盆を持って立っていた。
 
 ―――何で俺がこんな事。
  
 青年は髪を掻き毟る、心中に苛立ちが募る。
 
 と。
 
 「ねーぇ」
 
 青年は顔を上げる。
 
 最初に目に飛び込んだのは胸元の派手なブローチ。
 
 そこには派手なドレスを着た三十代そこそこの女が、妖しく口元を歪ませて立っていた。
 
 「ねぇ、あなた」
 
 「―――俺、ですか?」
 
 「そう、あなた」
 
 青年は自分の頭から記憶を手繰り寄せる。
 
 この女確か、陸省長官の―――
 
 「どうかしたの?」
 
 突然意識が現実に戻る。
 
 「いえ、何でも」
 
 「そう」
 
 にぃ。
 
 女は口元の妖しい笑みを少し深める。
 
 「少し、付き合って下さるかしら」
 
 「何用で」
 
 女は俺の耳元に口を寄せ、『ある事』を呟く。
 
 
 な―――
 
 
 女は妖しい笑みを浮かべながら言う。
 
 「真っ赤になっちゃって、可愛いわね」
 
 それとも、こんなおばちゃん相手じゃ嫌かしら?
 
 
 





 
 
 「それで?」
 
 「断る訳無いじゃろうが」
 
 にぃ 老僧は口端を吊り上がらせる。
 
 「まぁそんな訳で、わしらは人気の無い所まで移動したんじゃ」
 
 老僧は既にぬるくなった茶を啜った。
 
 
 
 





 
 薄暗く湿った、ひんやりとした物置。
 
 そこに青年と女は向き合うように立っていた。
 
 「さ、始めましょうか」
 
 女は妖しく笑い、ゆっくりと背中のファスナーに手を掛ける。
 
 ごぶり。
 
 青年は喉に貯まった唾を飲み込む。
 
 衣擦れの音が辺りを包む。
 
 「ほら、あなたも―――」
 
 青年は慌てて軍服を脱ぎ出す。
 
 遂に女は、下着だけの姿になった。
 
 「さぁ、来て」
 
 女は妖しく微笑みながら床に寝そべる。
 
 青年は早鐘の様に鳴る心臓を抑えながら、ゆっくりと女に近づく。
 
 「さぁ、あなたの好きな様に」
 
 青年は再度喉を鳴らす。
 
 そして、その豊満な乳房に、震える手を伸ばす。
 
 青年はその肉感に圧倒されていた。
 
 ただ怖々と女の乳房を揉みしだいていた。
 
 女の艶っぽい声が部屋に響き渡る。
 
 「もっと、もっと強くしても良いわよ」
 
 瞬間、青年の頭の中が空白になる。
 
 そして。
 
 「おきゃあああああああああああああああああああああああああ」
 
 
 ぱーん。
 
 
 ぱーん。
 
 
 ぱーん。
 
 
 青年は喉から怪鳥の様な砲叩を絞り出しながら女の胸を叩き続けた。
 
 うどんの様に、狂ったかの如く。
 
 
 打。
 打。
 打。
 打。
 打。
 





 
 
 
 
 「それ以来、会ってないのぅ―――」
 
 老僧は庭をじっと見つめている。
 
 若僧はうつむき黙っている。
 
 静寂が辺りを包んでいた。
 
 
 長い長い間。
 
 
 ゆっくりと若僧は顔を上げ、ぽつりと呟く。
 
 「たまりませぬ」
 
 老僧は冷えた湯飲みの水面を見つめている。
 
 「たまらぬ、実にたまらぬ」
 
 
 と、雪が止んだ。
 
 若僧は立ち上がり、何も言わず襖を開ける。
 
 そして老僧をちらりとも見ずに襖の奥に消えて行った。
 
 
 ちちち。
 
 
 駒鳥が空へと羽ばたく。
 
 老僧はそれを追うように空を見上げる。
 
 駒鳥が完全に見えなくなっても、老僧は空を見つめていた。
 
 
 童帝の剣 群狼の変  完
 
 
 
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