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老人と若僧1

 薄暗い、畳を敷き詰めた部屋を灯籠の灯がゆらゆらと照らしている。
 
 その部屋に二人の男が座していた。
 
 片方はまだ若く精悍な顔立ちをした、剃髪の胴着を着た青年である。
 
 もう片方は長く白い髭を蓄えた、よれよれの袈裟を身につけた老人であった。
 
 「来たか坊主」
 
 「はい」
 
 老人は小脇に置いてあった徳利を持つ。
 
 
 きゅぽん。
 
 
 徳利のふたが開く小気味の良い音が部屋に響く。

 「今日の説法は何ですか」

 「今日か、今日はな」
 
 老人は良いながら、猪口に酒を注ぐ。
 
 「わしの昔話を聞いて貰おうかの」
 
 「昔話、ですか」
 
 「うむ」
 
 老人は猪口に注いだ酒を軽く啜り、満足そうに息を吐く。
 
 そして遠い目をする。
 
 「―――ありゃあ、わしがまだ16の頃じゃった」
 
 鈴虫の声が聞こえる。
 
 少しの間、その後老人はゆっくりと語り出す。
 
 「若気の至りとでも言おうか、いや、その年齢なら至極当然の行為と言えような」
 
 青年は何も言わない。
 
 老人は続ける。
 
 「わしはなぁ、その日何時もの様に『それ』をしていたんじゃ」
 
 「『それ』とは?」
 
 
 にぃ。
 
 
 老人の口端が持ち上がる。
 
 
 しこしこじゃよ―――
 
 
 二人の影が燈籠の灯でゆらゆらと揺れる。
 
 「しこしこ、ですか」
 
 「うむ」
 
 老人はもう一度、猪口を口に傾ける。
 
 「そしてなぁ、物事には陰と陽、始と終が有るように、しこしこにも終わりが有る」
 
 青年は軽く思案し、老人の方を向く。
 
 「終わりとは『逝く』時ですね」
 
 「うむ」
 
 外で木々の擦れ合う音が聞こえる。
 
 老人は猪口に酒を注ぎ足す。
 
 「そしてのぅ、わしも逝きそうになったんじゃよ」
 
 青年は姿勢を崩さずに、じっと聞いている。

 「そしてな、逝く瞬間に近くのティッシュを取ろうとしたんじゃよ、だがのぅ」
 
  紙がな、一枚も無かったんじゃ―――
 
 
 ぞわり。
 
 
 青年の背筋に冷たい脂汗が伝う。
 
 紙が一枚も無かった、だと?
 
 「それで、どうしたのですか」
 
 「それでな、仕様が無く陰茎の皮を伸ばしてその中に精子を貯めたのよ」
 
 青年の表情が曇る。
 
 老人は猪口を軽く傾ける。
 
 「それはたまりませぬね」
 
 「うむ、たまらぬ」
 
 老人は深く頷く。
 
 「だがな、更にたまらぬ事がな、この後有ったのよ」
 
 青年の表情が強張る。
 
 「更にたまらぬ事、ですか」
 
 「そうじゃ」
 
 あれは、たまらぬ事じゃったのぉ―――
 
 
 
 
 
 
 
 その男の額には、じっとりと脂汗が浮かんでいた。
 
 
 糞っ。
 
 いったい俺が何をしたと言うのだ。
 
 
 男の格好は異様な物であった。
 
 上半身は普通のTシャツ、しかし下半身は何も身に着けていないのである。
 
 そして、その両手には魔羅の皮がしっかりと握られていた。
  
 油断していた。
 
 まさか紙が一枚も無いとは。
 
 が、今は嘆く余裕すら無い。
 
 男の表情が張り詰める。
 
 
 大丈夫だ。
 
 行ける筈だ。
 
 
 心中で自分に言い聞かせる。
 
   応っ。
 
 
 男は走り出した。
 
 便所だ、便所にさえたどり着けば。
 
 家の地理は熟知している。
 
 急ぎ足で階段を駆け下りる。
 
 
 間に合え。
 
 俺は助かる。
 
 
 そして、便所への距離が残り僅かになった。
 
 
 にぃ。
 
 
 男の口端が醜く吊り上がる。
 
 行ける、行けるぞ。
 
 男は更に加速する。
 
 だがその時。
 
 
 ぐわり。
 
 
 男の視点が反転する。
 
 
 何?
 
 
 そして―――
 
 
 男の体が重力に従って、地面に叩き付けられる。
 
 その、精子と共に。
 
 
 ぶしゃぁ。
 
 
 辺りに栗の花の香りが漂う。
 
 
 そこに女は現れた。
 
 
 あきゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ
 
 
 男は腹から怪鳥の様な砲叩を絞り出す。
 
 現れた女とは、男の母であった。
 
 
 馬鹿な、こんな所で。
 
 
 母はおもむろに視線を下に落とす。視線の先には男の白濁液がぶち撒けられていた。
 
 「おやぁ?なんだぃこれは、よぉ」
 
 にぃ。
 
 母は皮肉そうに口端を歪める。
 
 男は咄嗟に答える。
 
 「カルピスだ」
 
 「え?」
 
 「カルピスを溢したのだ」
 
 
 
 
 
 
 
 「そう言ったのですか?」
 
 青年は問う。
 
 老人は何も言わずに眼を細め、猪口の酒を飲み干し、息を吐く。
 
 「―――あの時はそれしか言えんかったのさ」
 
 老人は掠れた声で呟く。
 
 「しかしのぅ、そのぶち撒けられた液体は」
 
 
 どう見ても、精子じゃった―――
 
 
 じりり
 
 
 燈籠に羽虫が飛び込み、虫が焼ける嫌な匂いが漂う。
 
 青年はゆっくりと立ち上がり、近くの襖に向かう。
 
 「実にたまりませんね」
 
 「たまらぬのぉ」
 
 
 がらら。
 
 
 青年は襖を開ける、鈴虫の声が大きくなる。
 
 青年は外を見ながら呟く。
 
 「ありがとうございました、本当に」
 
 「ああ」
 
 老人はそれっきり黙ってしまった。
 
 青年は静かに襖を後ろ手で閉じた。
 
 
 
 
 
 
  
 「良い月だ」
 
 青年は空を仰ぎ見る。
 
 辺りはとっぷりと暗くなっている。
 
 りんりん、と鈴虫が鳴いていた。
 
 青年は静かに自分の寝室に戻る。
 
 どこからか、栗の花の香が漂ってきた気がした。
 
 
 
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